南方熊楠の未公開原稿
紀伊の白浜へ行った時に、
京都大学水族館と川久ホテルと
ちかくの300円の温泉とに行きました。
そこで、私としては大発見。
水族館の裏は小高い丘になっていて、
鬱蒼と植物が茂る中、「南方熊楠記念館」が、ありました。
明治の国際的な博物学者の事は、皆さんご存知ですよね。
私は、もう20年近く前、国際児童文学館の学芸員だった
横川先生(たぶん今はどこかの教授)の研究テーマで
「シンデレラ物語」の分布を学びました。
東洋のシンデレラ物語(米ぶく粟ぶく や 中国の島の物語)
が西洋や中東より古く、その文献の中に
南方の名がありました。
というわけで、
粘菌の世界的な学者であることを知ったのは、その後です。
昭和天皇が生物学者だったので、英国留学中にその名を
知って、紀伊を訪ねられたのは有名なお話です。
私は、英米の児童文学を学んでいた課程で、南方の名を知ったのです
が、熊楠の奥様は神社の宮司の娘であった事を今回知り、
沖縄と同じ月桃や浜ゆう が咲くこの半島。
その先には世界が広がっているのが
とてもよく現地で、実感できました。
河合ハヤオさんが、「とりかえばや」の事を
児童文学の分析で書いてられます。
そのテーマかと思って読んだ、
展示物の未公開原稿で、
巫女のルーツを再確認することに・・・
2階の最後の博物学のコーナーに
数冊の未公開原稿があります。
その中に
「女装の男巫と男装の女巫」というものがあり、
アニマとアニムスの話?と思って読みました。
すると、祇園のお茶屋に
なぜ、赤い前掛けが大事に保存されているか?
なぜ、鳥居本の「平野屋」の前掛けは赤いか?
なぜ、茶摘娘(ちゃつみこ)の正装の前掛けは赤いか?
なぜ、お煎茶の茶会で流派により、前掛けをつけているか?
なぜ、ある流派の正式のお茶のふくさは、赤いか?
といった、自分の中の小さな研究テーマ(自分のための)
の答えが少しまた、見つかったのです。
単純に言うと、答えは「赤い前掛けは巫女の袴が
簡略化したもの」 なのです。
そのルーツともなる記述がありました。
南方の博物学のページ2枚だけの内容ですが・・・
引用します。
その昔中国の西晋の時代には、
巫女と妓と全く兼ねた時代であった。
章丹と陳珠という2人が歌や舞いを能くした。
夜には糸竹鐘などをうまく囃し、
舌を出して刀を飲む芸を見せた。
清朝で、それが
話題となった。
漢代の天子につかえる
祭をつかさどる
男子がそのまねをして
女衣装で舞い、芸をみせるようになった。
というのが、私が斜め読みしたサマリーです。
英語で、祇園のお茶屋を説明するのは大変。
お茶が寺社の中でつくられていて、
下級の巫女が妓も兼ねていて、
その名残が祇園の郭となっているのです。
そして、出雲のお国も巫女すじです。
白拍子もその一種だった事でしょう。
そこから、歌舞伎が生まれて
女形が生まれていく日本と
かぶる中国の博物学がここにあります。
文化が似ていても、似ていなくても
「原型」があるのは文化の面白さで
醍醐味です。
お茶が、寺社とともに発達した事を
思うとき、薬も癒しもおもてなしも
同じところから来ているように思います。
秋にはまた、すばらしいお茶室を使って
お茶会を開きます。
あの空間に◎様がちょっと立ち寄ってくださる
静かな時間を待ちます。
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